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「奇跡の丘」 マタイによる福音書の忠実な再現

Gayo!を見ていると、バゾリーニの作品が出ていましたので、早速この機会を逃さず鑑賞してみました。1964年の映画で、聖書の基づく映画です。監督は、ピエル・パオロ・バゾリーニ。イタリア・フランス合作で、ヴェネツィア国際映画祭でノミネートされ、審査員特別賞及び、OCIC賞を受賞。オスカーでは、編曲賞・美術賞 (白黒)・衣裳デザイン賞 (白黒)にノミネートされました。
Il vangelo secondo Matteo (1964)

あらすじ
ベツレヘムのヨセフ(マルチェロ・モランテ)の婚約者マリア(マルゲリータ・カルーソ)は、処女のまま身籠ると、驚いたヨセフの前に天使が現れ、マリアは聖霊によって懐妊したことを告げ、そのまま結婚し、その子をイエスと名付けなさい、と告げました。やがて、イエスが生まれると、神の子誕生を恐れたヘロデ王(アメリゴ・ベヴィラッカ)は、ベツレヘム周辺にいる2歳以下の男の子を全員殺害するよう命じますが、事前に現れた天使により、一家はエジプトに逃れていました。時は流れ、ヘロデ王も亡くなり、天使がイエスに、イスラエルに戻るよう告げると、ガリラヤで成人したイエス(エンリケ・イラソキ)は、洗礼者ヨハネ(マリオ・ソクラテ)の洗礼を受けました。

その後、イエスは40日間の修行を経て、人々に神の教えを説き始め、漁師のペテロ(セティミオ・デ・ポルト)から始まって12人の使徒を連れて、ガリラヤを巡り、教えを広め、数々の奇跡を行っていきます。しかし、長老や司祭、律法学者など、イエスを快く思わない者も少なくありません。ヨハネはヘロデ王の王子ヘロデア(フランカ・クパーネ)の娘サロメ(パオラ・テデスコ)の指示により、処刑されました。そしてイエスは自分もいずれは、彼らに処刑されるであろうと告げ、エルサレムを目指します。エルサレムに着き、使徒と共に食卓についたイエスの元に“ベタニアのマリア”(ナタリア・ギンズブルグ)という女性が現れ、イエスに高級な香油を注ぎ、ユダ(オテロ・セスティリ)は、香油は売れば貧者に施せると咎めますが、イエスは「女は良いことをしている」と諭しました。

イエスは長老や司祭たちの批判を行い、使徒と共に最後の晩餐についたイエスは、この中に裏切り者がいることを告げます。イエスの預言通り、ユダは銀貨30枚でイエスを長老や司祭らに売り、イエスはピラト総督(アレッサンドロ・クレリチ)に引き渡されました。ゴルゴタの丘に連行されたイエスは十字架に磔にされて処刑されました。自らの行いを悔いたユダはその後自殺します。その死を嘆く老母マリア(スザンナ・パゾリーニ)や11人の使徒の前に再び天使が現れ、ガリラヤに行けば会える、と告げました。そして、処刑から3日後、イエスは預言通りに復活し、マリアや11人の使徒の前に姿を現したのでした。



奇跡の丘

「マタイによる福音書」の忠実なの映画化作品という事です。聖書を読もうとトライすると、最初に読むのがだいたいこれになると思うのですが、私の場合はまずいきなり出てくる系図を頭に入れようとして、いつも挫折していたと思います。映画ならすんなり頭に入るだろうと、気合を入れて鑑賞。さすがに、長い人生の中で、どこかでお目にかかったエピソードが続くのですね。美しい映像や、インパクトのある映像が連続します。村の赤子をことごとく殺しに来る場面とか、衝撃的でもあります。聖書の物語が、たいへんリアルに描かれていきました。音楽もしっかりと盛り上げていきます。

素人俳優で制作した映画とのことですが、素晴らしい演技が引き出されていました。そして、素晴らしいリアリズムで、感動を呼びおこしていきます。まずマリアが印象的、そして天使の登場。これは美しく、さらに十二使徒の一人一人が特徴的でした。ユダが執拗に写される回数が多く、印象付けられます。私は大多数の日本人と同じで、宗教とは中途半端な付き合い方しかしていませんし、キリスト教系の幼稚園とか、中学校くらいまでは、英語の勉強のため、教会に通っていた程度の、言わば頭の付き合いで、生活の中に入っていませんが、映画を見ながら、西欧の文化はすべてここからきているのかと考えていました。

キリスト教は、芸術の方面で、歴史と伝統のあるサポートがあり、映画にしろ音楽にしろ、キリスト教の浸透に重要な役割を果たしていると思います。キリスト教徒でなくても、この物語を知っている人がとても多いという状態になっています。このような映画や、古くから作られている音楽や劇など、文化と融合して根付いていることを感じます。それがまた劇的であり、感動的なのですね。ひところアマチュアの演奏会によく通っていましたが、ママさん合唱団が「ヨハネ受難曲」を歌い上げるのを聞いて、なんと感動した事でしょう。などと、長い歴史の重みを映画を見ながらの感じていました。

2021.2.13 HCMC自宅にてGayo!よりのパソコン鑑賞
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テーマ : 映画レビュー
ジャンル : 映画

「ノスタルジア」 映像の中にノスタルジアを強く感じさせる

Gayo!無料動画にノスタルジアが出ていました。懐かしいなと思っているうちに無性に見たくなって鑑賞しました。説明の必要のないほど有名な映画だと思いますが、監督はアンドレイ・タルコフスキーで、1983年の映画です。イタリア・ソ連合作。カンヌで、監督賞・FIPRESCI賞・エキュメニカル審査員賞を受賞しました。
原題:Nostalgia (1983)

あらすじ
トスカーナ地方の霧の中の村。男女が車から降り、女性だけが教会に向かいました。エウジェニア(ドミツィアナ・ジョルダーノ)は教会を訪れ、イコンに祈りを捧げる儀式を見学します。ロシア出身の作家であり詩人であるアンドレイ(オレーグ・ヤンコフスキー)は、ロシアの音楽家サスノフスキーの伝記を書くため、通訳のエウジェニアとともにこの地を訪れていたのです。ホテルに着くと、アンドレイは眠ってしまい、その間に犬が入ってきて、彼のそばに座ります。アンドレイは幻の中で、妻(パトリツィア・テレーノ)が、身重でベットに横たわっているのを見ます。エウジェニアに起こされて、ヴィニョーニ温泉へ行き、信仰で世界を救おうと考えるドメニコ(エルランド・ヨセフソン)に出会います。彼は、世界の終末を避けるため、7年の間家族と共に家に閉じ籠った経歴があり、狂人の様に扱われていました。アンドレイは、ドメニコに興味を持って家を訪れ、世界の救済のために、彼に変わってロウソクの火を絶やさず温泉を横断するという儀式を代わりに行うことを約束します。

ホテルに戻ると、通訳のエウジェニアが部屋でシャワーを使って待っていましたが、アンドレイは誘いに応じられず、エウジェニアはローマへと去っていきます。アンドレイは再びあるロシアの場所で、霧の中、犬や家族たちがいる幻想を見ます。アンドレイは心臓に持病があり、安らかな死を願っていました。アンドレイも温泉を去り、次の旅支度を整えたところで、エウジェニアから電話があり、ドメニコがローマで演説を始めたことや、儀式をしてもらったか訪ねていたことを伝えられました。アンドレイは、急遽ヴィニョーニ温泉に戻ることにします。ドメニコは、ローマの広場で演説を行い、最後に焼身自殺を図って亡くなりました。ヴィニョーニ温泉へ戻ったアンドレイは、ロウソクを手に温泉の中を進み、三度目で火を消さずに渡り切ると倒れてしまいます。そして、再びみる幻は、ロシアの同じ場所にイタリアの神殿が重なり、その中でたたずむアンドレイと犬に静かに雪が舞い落ちているのでした。


ノスタルジア


無料で見られるタイミングだったので、思わず見たくなってしまいました。頭の中にあるのは、いろいろな場面の映像の記憶。映画史の中でも屈指の美しい映像です。綺麗なという映像ではありません。この映画のレビューはたくさんの方があちことに残していらっしゃると思いますが、同時代に映画を見ていた者にとっては、ひとつのバイブルのような映画という位置づけになるかもしれません。認知度が非常に高い映画です。そして、物語や映像の中にいろいろな意味が込められていそうで、とてもひとことでは論じられない映画だとも思います。

タルコフスキー監督が亡命をひかえて制作した映画。その視点がこの映画に大きなウェイトを占めていると思います。セリフの中で、国境を無くすることをアンドレイは求めていました。ドメニコの家の壁に書かれた1+1=1。水の1滴と1滴が合わさると、より大きな水の1滴。世界を滅亡から救済するため、ドメニコは焼身自殺し、ドメニコに協力するアンドレイは、蠟燭の移動を成功させると、倒れます。そして、二つのノスタルジアが融合していきます。たぶんメインの筋書きをたどると、そんなところだと思っています。

私は、雨が好きなんですが、それは降りしきる雨を感じると、子供の頃山奥の家の縁側で過ごした時、どこへも出かけられれない中で、すべてを洗い流していくような雨や、雨樋から落ちる水滴を見ているのが好きだったことを思い出すからです。庭の木の葉の色が雨で濃く光りだします。この映画で、アンドレイの部屋の右側に人口の光、左側に雨の降る外の光と音、中央で眠りに落ちるアンドレイという構図。この映画の中で好きな場面です。いつでも手元にあれば見てしまいたくなる映像です。また、近いうちに見てしまいそうな気がします。

2012.2.14 HCMC自宅にてGayo!よりのパソコン鑑賞

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「アポロンの地獄」 自伝的要素を含むオイディプス王

Gyao!の、キネ旬ベストテン作品特集からの鑑賞です。今回は、「アポロンの地獄」。1967年の映画で、監督はピエル・パオロ・パゾリーニ。キネ旬1位を獲得しました。ヴェネツィア国際映画祭のノミネート作品でもありました。
原題:Edipo Re (1967)


あらすじ
現代。ある女性が男の子を産みますが、その父親がその子を見る目は冷たいものでした。

古代ギリシャ。荒涼とした地で男が運んできた赤子に手を掛けようとしますが、できずに置き去りにします。入れ替わりに現れた男がその子を拾い、コリントスの王に報告すると、王はその子を神からの授かりものとし、後継ぎとして育てました。オイディプス(フランコ・チッティ)と名づけられたその子は逞しい青年となりますが、不吉な夢の意味を知るため、デルフォイに神託を受けに向かいます。神殿でオイディプスは、「父を殺し、母と情を交わす。」と告げられ、愕然としてコリントスに戻らず、荒野を彷徨いました。旅の途中でオイディプスは、出会った一行と諍いになり、逃げた一人の従僕を除き殺害してしまいました。

テーバイの町は、スピンクスによって災いがもたらされていました。オイディプスはスピンクスを倒しますが、テーバイ王ライオスはデルフォイから戻らず、布告に従って、オイディプスは后のイオカステ(シルヴァーナ・マンガーノ)を娶り、テーバイ王となります。ところがテーバイに疫病が蔓延し、ライオス王殺害犯に対する天罰であるとの神託を受けると、オイディプスは、徹底して犯人捜しをはじめ、その結果、かつて旅の途中でオイディプスが殺したのがライオス王であり、オイディプスはライオス王とイオカステの子であるという事実が判明しました。預言通りになってしまったことに絶望し、イオカステも自殺してしまうと、オイディプスは自らの両目をえぐり、テーバイを後にして放浪の旅に出たのでした。

そして再び現代。盲目の男が若者の助けを借りて街を彷徨います。中心街ではリベラルな曲を吹き、工場街では革命歌を吹き、そして冒頭の生まれた場所に戻っていくのでした。


アポロンの地獄


ギリシャ悲劇の「オイディプス王」を原作する作品。悲劇の前後に現在の映像が入り、ギリシャ悲劇がサンドイッチされた形になっています。バゾリーニ監督の映画は、「ソドムの市」しか見たことが無いのですが、監督のいろいろな情報については、いろんな所で目に入っており、耳年増状態です。まず、オイディプス王の部分については、原作劇の通りだと思います。撮影されたのはモロッコということで、砂漠っぽい上に、遺跡のような場所なので、ギリシャの現役の都市国家という雰囲気ではないと思いました。そして、登場する人々も、音楽もかなり国際感があふれ、現代風に脚色したオイディプス王という感じです。

その、ある意味新鮮なオイディプス王を挟んでいる部分が現代劇で、この映画はパゾリーニの自伝的要素があるとも紹介しているので、この部分がキーかと思います。冒頭は、母の寵愛と父の嫉妬というイメージで、ある意味オイディプス王の物語に繋がる部分もあると思いますが、パゾリーニの生い立ちを暗示しているのでしょうか。最後に足をつかまれますが、オイディプスは「膨れ上がった足」という意味というのがWikiに書かれてますから、父に足をつかまれ、足を縛られて山に運ばれ、そしてコリントス王は盛んに足が腫れていると言っていたので、この名がついたという事でしょう。

ラストは、オフィス街で笛を吹き、工場街で笛を吹き、そして生まれた場所に戻っていく男。オイディプス役のチッティ が演じています。Wiki(フランス)によれば、オフィス街ではブルジョワ曲で、工場街で吹くのはロシア革命の曲らしく、生まれて、詩作の世界に親しみ、労働者の世界に親しみ、母の場所に戻って行くということのようです。冒頭から、オイディプス王、エピローグと繋げてパゾリーニの自伝的意図を持たしているという事でした。邦題の意味が良く判りませんでしたが、デルフォイの神託を行うのが、アポロン神なので、あの神託による地獄という意味だと思います。久しぶりに映画を頭で見てしまいました(笑)…。

2021.2.10 HCMC自宅にてGayo!よりのパソコン鑑賞

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「甘き人生」 見事なラストに人間の成長を考える

非英語圏のヨーロッパ映画を見る10月その9。以前映画館の予告編を見た記憶があり、何やら往年の名画を思わせるようなビッグな邦題なので記憶しているのですが、原題は「良い夢を」。まぁ、「おやすみなさい」って感じですかね。2016年の映画で、監督はマルコ・ベロッキオ。イタリア・フランス合作作品です。
Fai bei sogni (2016)

あらすじ
朗らかな楽しい母(バルバラ・ロンキ)と一緒に過ごしてきたマッシモは、母のお休みの言葉で眠りについた次の日、突然母がいなくなってしまいます。マッシモは母が入院していると教えられますが、連れて行ってはもらえず、ついに神父から母の死を告げられ、葬儀も行われました。しかしマッシモは、母の死を信じることができず、父(グイド・カプリーノ)は心を閉ざしたマッシモに親しく接しますが、マッシモのわだかまりは消えませんでした。マッシモは友達の家を尋ねた時、母を疎み邪険にしつつも、仲のいい親子を見つめ羨ましく感じます。そして、自分の母はニューヨークにいると嘘をつくのでした。

1992年マッシモ(ヴァレリオ・マスタンドレア)はローマで記者として働いていました。恋人とは心の内を話すこともなく、冷めた関係でした。知り合いの大富豪を訪ねた時、ちょうど警官が彼の身柄を拘束に来たため拳銃自殺をする場面に出くわし、マッシモは編集長の言うままにそれを記事にします。1993年混乱のサラエボの取材時には、遺体となった女性と、ゲームをしている少年を並べてカメラに収めます。そして、ローマに戻ったマッシモのもとに、叔父が保管していた母のマッチ箱が届き、母を思い出して、パニック発作を起こしてしまいます。病院に電話して、医師の指示に従うと落ち着いたので、改めて病院を訪ね、電話で話したエリーザ医師(ベレニス・ベジョ)を信頼し身の上を話すと、父が教えた心筋梗塞という母の死因はあり得ないと教えられました。

1995年。マッシモは久しぶりに父に会い、父の再婚と、家や遺品をすべてマッシモに残すと告げられます。新聞社では、母への憎しみを書いた投稿に返答を書くように指示され、マッシモは自分が母を失った体験を中心に記事を書くと、大きな反響を呼び、たくさんの読者からの手紙がマッシモの元に届きますが、マッシモは素直に喜べませんでした。マッシモはエリーザからの連絡で、彼女の祖父母のダイヤモンド婚式を訪れ、誘われるままダンスを踊り、エリーザとキスを交わします。

マッシモは父の死後、家を売ることにして片づけをしている最中、母の死の記憶がよみがえり、叔母を呼び出して本当の死因を問い詰めると、重病を苦にした投身自殺だったと告げられます。マッシモは母が自分をおいて自殺したことにショックを受けます。そして、エリーザとの二人の部屋。横たわるマッシモを優しく抱きしめ、母を「行かせてあげて」とささやきます。マッシモの記憶の中では、家の中での母とのかくれんぼが蘇ります。それは、隠れた母が見つからず不安になった時、母が現れて優しく抱き締めてくれた記憶でした。



甘き人生

少年期に母が亡くなったと告げられ、それが信じることができないまま、大人へと成長していった少年の物語でした。マッシモの目を通して世界を見ていくので、見ている方も本当に母が死んでいないのではないか?という疑念が湧いてきます。人の言う事は全く信じられないという設定で話が進み、誰もが納得する客観的証拠で母の死が確定します。細かいところですが、そのあたりは、しっかりできていると思いました。物語のほとんどは、マッシモの微妙な揺れる心情を通してみた世界が描かれ、最後の数分で展開して、しっかり締めるという、面白い構成だと思います。

ラストの数分が秀逸でした。ずっと、決して突き抜けない、フラストレーションがたまる様な展開で話が進んだ後の、エリーザの一言と、象徴的な母のかくれんぼの記憶で、親子の愛情の核心を優しく表現していたと思います。最後が決まっている映画は、決して印象が悪くなる訳がありません。また、この映画の中では、いくつかの決して幸福とは言えない、人生の断片が描かれていました。それと、ラストを組み合わせながら、移ろいゆくいろいろな人生の無常観と、それでも続く人間の営みを、様々な形を表していると思いました。

原題は、Have a good dreamなので、母が最後にマッシモかけた言葉です。母の言葉で、マッシモはずっと夢を見続ける結果になってしまったのかもしれません。優しい母の姿が決して死んではいないという夢かもしれません。マッシモの成長に、この母の喪失がずっと影を落としています。人間の性格形成にはいろいろな要因があると思いますが、普通に母親がいて育った場合と、そうでない場合も、そういった一つの性格を左右する要因であることは間違いのないもので、それは、残念ながら、良くも悪くも最後まで人生に付きまとうものであるということは、まぎれもない事実だと思います。

2020.10.25 HCMC自宅にてAmazonPrimeよりのパソコン鑑賞

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「ウンベルト・D」 年金生活者の貧困を描くネオレアリズモ

ヴィットリオ・デ・シーカ監督のネオレアレズモ期の作品です。題名から、何かドイツのスパイ映画みたいな印象を持っていたのですが、れっきとしたネオレアレズモ映画でした。1952年の映画で、アカデミー原案賞ノミネート。カンヌでもコンペティションのノミネート作品となりました。
原題:Umberto D. (1952)

あらすじ
ウンベルト・ドメニコ・フェラーリ(カルロ・バッティスティ)は、年金引き上げデモに参加しますが、散会させられます。アパートで、愛犬フランクと住んでいる彼は、年金の大半を持っていかれる家賃を滞納し、今月末までに支払わないと追い出すと通告されていました。彼は、ながく政府の役人を勤め上げ、今やわずかな年金に頼って生活している状態。家賃を払おうと、時計や蔵書を売却し、一部でも返済して、引き伸ばそうとしますが、大家は頑として受け付けません。アパートにはマリア(マリア・ピア・カシリオ)という奔放なメイドが、女主人(リナ・ジェンナーリ)の元で働いていて、彼女との会話が唯一の救いでしたが、彼女は二人の兵士から言い寄られ、妊娠してしまったのですが、どちらの子供かわからず、二人とも子供の話には耳を貸さないようでした。

ある夜、ウンベルトは熱が下がらず、慈善病院に入院。食費の助かることからできるだけ長居して、戻ってみると、部屋は改装中で、勝手に取り壊され、愛犬のフランクがいなくなっていました。あわてて保健所に行き、用済みとなって殺される犬たちを見ながら、なんとかフランク犬は探し出したものの、金策のあてはなく、街頭に立って乞食をしようとしますが、プライドが許さず、ついに自殺まで考えますが、フランクをみると置いておけないと思い、ついに早朝ひっそりとマリアにのみ別れを告げて、アパートを出ていきます。フランクを預かって幸せにしてくる宛を探しますが、見つけられず、ついにフランクと列車に飛び込み心中することを思い立ちました。

ウンベルトはフランクを抱きかかえ汽車の前に立ちますが、驀進してくる列車に驚いたフランクは、ウンベルトを振り切って逃げ、ウンベルトもギリギリのところで、列車に飛び込まずに済み、ウンベルトを避けるようになったフランクの信頼をなんとか取り戻すと、ウンベルトはフランクと共に、また歩きはじめるのでした。



ウンベルト・D

名前だけ見かけて知っていた映画だったのですが、ヴィットリオ・デ・シーカのネオレアレズモ映画だったのですね。ドイツ表現主義の映画かと思っていました(笑)。でもドイツ語読みだとフンベルトですので、そのあたりも浅学が露呈しています。ヴィットリオ・デ・シーカといえば。ネオレアレズモの作品が有名で、自転車泥棒などからネオレアレズモの監督という印象が無くもないのですが、実際彼の作品は、ロマコメや、ラブストーリーなどイタリアらしい濃厚なドラマが多く、ネオレアレズモはその最盛期に固めて数本撮られたという感じです。そして、これがその最後で、この次の作品は終着駅なので、ハリウッド俳優を起用したラブストーリーなのでした。まぁ、本人自身が二枚目俳優ですし…。

見た感想としては、自転車泥棒と同じような貧困を扱う映画ではありますが、見ているうちは、それほど悲惨さは感じられず、それは子供と、すでに生涯の終わりに近づき、人間として出来上がって、プライドのある老人の違いもあり、見た目衝撃度は低い感じです。しかし、これから先を考えると、きっとウンベルトは生活の糧を得る選択肢は無く、あとはフランクと共に死んでいくだけという境遇で、深刻さは大きいと思いました。運が向かない限りは、あの犬の処分のシーンがウンベルトの境遇にちらつきます。そして、社会から用済みとされた人間と、プライドを捨てられないウンベルトの様々な接触を見せつけ、もう先が無いことを非情にわからせていくという感じでした。コメディタッチのふんわりした雰囲気の中で、語られるのは厳しい現実ばかりです。

この映画に出てくる女性たち。リナ・ジェンナーリとマリア・ピア・カシリオですが、どちらもイタリア女性らしい雰囲気に出会えました。リナ・ジェンナーリは強烈なタイプ。寡作ではありますが、もともと映画俳優はやられていたようです。マリア・ピア・カシリオはこれが最初の映画出演。その後、いろいろな作品に出演され、長く活躍されたようです。町の娘さんという風情で可愛らしいですね。そもそも、この映画の出演俳優はほとんどが素人で、カルロ・バッティスティは大学教授で、後にも先にも出演はこれ一作のみ。素人とは思えない演技で、さすがヴィットリオ・デ・シーカの演出という感じでした。

2020.7.27 HCMC自宅にてAmazonPrimeよりのパソコン鑑賞

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「ボイス・オブ・ムーン」 フェリーニ監督のフィナーレ

非英語圏のヨーロッパ映画を見る10月その4。フェデリコ・フェリーニの最後の作品である1990年の映画の「ボイス・オブ・ムーン」。評判は今一つなので、ためらっていました。なんとなく、後期の作品に共通した雰囲気かなとも想像していましたので。ダヴィッド・ディ・ドナテルロ賞で作品賞ノミネートがあります。しかし、いくつかのイタリアの賞でも、演技、撮影等技術面での受賞はありますが、作品賞はありませんでした。
原題:La voce della luna (1990)

あらすじ
イタリアの田舎町のレッジョーロで、一風変わった詩人のサルヴィーニ(ロベルト・ベニーニ)は、ある夜井戸の中から不思議な声を聞き、その後、墓地でオーボエで悪魔の音を吹く男に出会いました。サルヴィーニは憧れの美しい女性、アルディーナ(ナディア・オッタヴィアーニ)に会いに出かけますが、彼女に追い出され、友人ネストレ(アンジェロ・オルランド)から、彼の異常性欲のある元妻のマリーザ(マリーザ・トマージ)との思い出を聞かされます。サルヴィーニは、現実は全てが嘘だという妄想に取りつかれている元知事のゴンネッラ(パオロ・ヴィラッジョ)と出会い、ミス・小麦粉コンテストに出かけましたが、優勝した愛しのアルディーナに幻滅。一方ゴンネッラは、そんな彼に静寂の素晴しさを説くのでした。

しかし、草原は急に騒々しい巨大ディスコに一変。怒り狂うゴンネッラは、ディスコをやめさせようとしますが、そこに彼の愛人が姿を現わし、二人は流れだしたウィンナワルツにのってダンスを踊り、皆の喝采を浴びました。サルヴィーニは妹夫婦の家へ向かうと、そこにネストレが現われ、クレーン車に乗った兄弟が月を捕まえ、お祭り騒ぎになっていると告げます。そこへ人生に不満を持つ男から一発の銃弾が打ち込まれ、皆は蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、やっと静寂を取り戻すと、サルヴィーニは井戸の側に佇んで、月の声にじっと耳を傾けるのでした。



ボイス・オブ・ムーン

フェデリコ・フェリーニの最後の作品であり、亡くなる3年前の作品でした。晩年のフェリー二の作品と、肌触りは同じですが、さらに抽象化され、また、長らくフェリーニの映画に登場した常連の有名な俳優陣はもはや登場せず、最後に集大成を遺したという形になっていると思います。その中には、今までの作品の中で語られてきたことが、残像のように描き出され、過去の作品の場面場面を彷彿させるようなシーンをありました。最後までフェリーニのいく先はブレず、ああ、これも最後なんだな…。という印象を持ちました。

サルヴィーニは夢想的な青年で、いつも心の中に空想を描いていて、月の声を聴こうとしていました。その幻想のイメージと現実が重なりあう展開を美しい映像で語っていきます。ストーリーも確たるものはありません。いわば空想の成り行きの様に浮かんでは消えて行きます。フェリーニの映画でいままで感じてきたようなことが、ここでも感じられます。虚構と現実、虚構を作り出す人々、お祭り騒ぎ、そしてラストの静寂へ。空想の中にだけ生きているサルヴィーニに、フェリーニは自分を投影しているのでしょうか。そんな中で、ゴンネッラが憧れの夫人とダンスを踊るのは大変感動的でした。

結局は、この映画を見ても、フェリーニの言いたいことは、私には半ば理解不能で、思考停止して映像に委ねていました。それはそれで、いろんなエピソードを積み重ねた、虚構の人生体験の世界に連れて行ってくれるので、心地よく見ていたという感じです。巨匠の晩年作品と言えば、黒澤明監督も、回顧しながら人生の年輪を感じさせるような映画を作っていましたが、感覚的に似ていると思います。その境地に行くのはまだ早いのですが、先々、自分が現実への興味よりも、思い出に生きる方のウェイトが高くなった時、この映画を見てどう思うのかな?と考えてみるのでした。

2020.10.10 HCMC自宅にてAmazonPrimeよりのパソコン鑑賞

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「聖なる酔っぱらいの伝説」 美しい映像で綴られる人生の幻想

非英語圏のヨーロッパ映画を見る10月その3。今回は、1988年の映画で、エルマンノ・オルミ監督の「聖なる酔っぱらいの伝説」。ヴェネツィア国際映画祭での、金獅子賞受賞作品でした。その他イタリア国内の賞など、いろいろ受賞しています。エルマンノ・オルミ監督の作品を見るとも相当久しぶりです。
原題:La leggenda del santo bevitore (1988)

あらすじ
元炭鉱夫のアンドレアス(ルトガー・ハウアー)は、パリの橋の下で眠る浮浪者でした。ある日、不思議な紳士(アンソニー・クェイル)に、200フランを貰ってくれと言われ、返済できるのならテレーズ像がある教会に渡してくれればいいと言われます。翌朝、床屋で身なりを整えパブに入ると、隣の席の男から声をかけられ、2日間引っ越しの手伝いに雇われました。アンドレアスは、お金を持つようになったので、新しい財布を購入。引っ越しの仕事を終え手当てを貰うと、奮発して安宿に泊まりました。日曜日になり、指定された教会に向かい、パブでミサの時間を待っていると、通りで元恋人のカロリーヌ(ソフィー・セガレン)と遭遇。アンドレアスは教会へ向かわず、カロリーヌの誘いに乗ってしまいます。

昔の思い出に浸りながら彼女と行動を共にし、彼女の部屋で一夜を明かしました。彼女は元は親友の恋人でしたが、暴力を振るわれているところを止めに入った時に、誤って彼を殺してしまい、彼は国外追放となっていたのでした。翌日パブで酒代で再び一文になり、橋の下で眠ることになり、夢の中で聖テレーズに、次の日曜日には必ず行くと誓います。翌朝、買ってからまだ使っていなかった財布の中に1000フランを見つけ、再びパブへ。壁に貼られたポスターで、親友の同級生がボクサーになっていることを知り、訪ねていくと、彼はスーツをプレゼントしてくれ、高級ホテルの部屋まで取ってくれました。そのホテルで、出会った踊り子のギャビー(サンドリーヌ・デュマ)に一目惚れし、デートで楽しい一日を過ごしました。

翌日は日曜日。アンドレアスは例の教会に向かい、パブへ寄って財布を見ると、お金がほとんどなく、返済用に分けておいた200フランを持って教会へ向かうと、悪友ヴォイテク(ドミニク・ピノン)と遭遇。ヴォイテクの話に乗って200フランを渡してしまい、お金を返すことができず、教会を出ます。橋の下へ戻ったアンドレアスは、不思議な紳士と再会。またも200フラン受け取り、雨宿りのつもりが、パブで飲み明かし、お金を使い果たしてしまいました。日曜日、教会に向かう途中で、警察に、財布を落としたと渡されるます。他人のものでしたが、そのまま受け取り、パブでヴォイテクと再会。そこに、夢の中の聖テレーズそっくりの少女が現れ、アンドレアスは少女に金を返そうとしますが、少女は人違いだと言い張ります。それでも、泣きながら、テレーズへ感謝し、借金を返そうとしていると、少女は去り、アンドレアスは卒倒して、教会へ運ばれ、テレーズに返す金を握りしめたまま、息を引き取るのでした。



聖なる酔っぱらいの伝説

この映画の雰囲気が大変気に入りました。浮浪者のルトガー・ハウアーを取り巻く、おかしな人々が織りなすコメディタッチの物語として話が進んで行きますが、まずはストラヴィンスキーの諧謔的な音楽が、物語と合って雰囲気を盛り上げていきます。そして、何と言っても映像が素晴らしいと思います。色彩も豊かで、昼と夜の映像を織り交ぜ、そして光と影までも、とても雰囲気が良く魅力的でした。いつも流して見ていたいような映像美でした。そんな中で、ルトガー・ハウアーのずっと酒浸りの演技や、その幻覚などが、面白く、またはその悲哀がしみじみと描かれていました。

ストーリーの中で、彼の人生が回想されていきます。その中で、出来た事やで叶わなかった事。最後の幻覚に現れた父母の姿。やりたくても、偶然に左右されてできない、借金の返済。幸運にも恵まれながら、上手くいかせなかったこの数日間。いろいろなエピソードを見せながら、思うようにいかない人生を凝縮したかのようで、見事なファンタジーに浸れる2時間でした。正直に生きながら、上手くいかなかった人生がここで幕を閉じます。しかし、その中に幾多の喜怒哀楽があったことが語られています。コメディタッチで包まれた、人生を描くファンタジーになっていました。

この映画の雰囲気を感じながら、たぶん日本公開時には、ミニシアターブームの時代ではなかったかな?と思い当たります。だいたいバブルの時期なんですが、この映画とか、当時のミニシアターにピッタリ合いそうです。この映画の日本公開のスタイルは知らないのですが、当時が懐かしくなるような映像でした。ブレードランナーで筋骨隆々たる演技を見せていたルトガー・ハウアーですが、ここでは、浮浪者の演技が素晴らしかったです。そして、サンドリーヌ・デュマが反則くらい可愛い。エルマンノ・オルミ監督は大昔に、木靴の樹を見たきりですが、これであれば、もっと見てみたいと思いました。

2020.10.9 HCMC自宅にてAmazonPrimeよりのパソコン鑑賞

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「尼僧の恋」 至上の愛を語るラブストーリー

ネットをいろいろクリックしているうちに、そのまま見始めてしまいました。フランコ・ゼフィレッリ監督の新しめの映画で、1993年の映画です。原作は、ジョヴァンニ・ヴェルガの「山雀物語」。シチリアのカターニアを舞台にした小説でした。ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で、衣装賞を獲得しました。

あらすじ
シチリアのカターニアの修道院で、7歳の時から修業を積んできたマリア(アンジェラ・ベティス)は、19歳になった時、町でコレラが流行し、いったん実家に帰されることになりました。エトナ山麓に戻った彼女を迎えるのは、父と、継母のマチルダ(シニード・キューザック)に義妹と義弟たち。マリアは久々に触れる自由の空気に浮かれていました。滞在中に、マリアは魅力的な若者ニーノ(ジョナサン・シャーク)と出会い、すぐにお互いに恋に落ちてしまいます。マリアはニーノを深く愛しながらも、神に仕える女性として育てられたマリアは、プロポーズにいい返事をすることができないまま、やがて秋になりコレラの脅威が去ると、再び修道院に戻されることになったのでした。

修道院に帰ると、マリアの思いはますます強くなり、日常生活に支障をきたすようになってしまいます。ついに病床に伏したマリアに、修道院長は父母を呼んで、実家に帰すことを打診しますが、そもそもマチルダは世間体もあり、また継子を疎んじ、体のいい厄介払いした手前、頑として受け付けません。ニーノはやがてマリアの義妹と結婚。修道院の前に住むようになります。マリアはその頃、恋の病で気が狂い地下室に閉じ込められているシスター・アガタ(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)の世話をしていました。アガタはある日、久しぶりに神父の説教を聞きに行きますが、神父が愛を心に巣くう悪魔に例えると耐えきれず、絶叫してしまい追い出されるのでした。

マリアは、何度も鉄格子の隙間から、向かいに住むニーノの姿を追ううちに、ある雨の夜、意を決して修道院を抜け出し、ニーノの家に駆け込みます。そこで、彼女を心配する義妹の姿を見、そしてニーノと二人きりになると、ニーノにも心の中にマリアが深く宿っており、しかもそれは既にかなわぬものと悟りました。マリアはニーノとの愛を胸に、これからは神と共に生きることを誓い、ニーノの前からさると修道院に戻り、神に仕える道を選ぶのでした。



尼僧の恋

前半は、カターニヤの美しい風景を背景とした、キラキラしたラブストーリー。どうしようもないくらい、これでもかと、美しく迫ってきます。19世紀末の様子を、当時の服装とかの美しさで再現し、映像とキラキラした若者で迫るだけのような展開で、少々退屈。いつの頃からか、無言のまま目配せで愛情が盛り上がり、ロミオとジュリエット調になり、先行きの破綻を予測される展開に、それだけの映画かなと思って見ていました。当時のフランコ・ゼフィレッリの活動の中心であった、オペラの演出に付き合わされているのかなぁなどと…。あくまでも映像は綺麗です。

後半の悲恋に向かう場面。予想以上に面白かったです。マリアの心の中に巣くう、修道院の上層部が表現する悪魔としての愛。愛に囚われたマリアは狂気のような煩悶の日々を送ることになります。修道院で無菌状態で育っただけに、それが強烈だったという事でしょう。それは、愛から深い情念へと変わっていきます。そして、情念がゆえに狂ってしまったアガタの出現で、さらにマリアの心は乱れていきました。最後は見事に魂の神々しい解放となりました。愛の非情を克服し、神と共に生きるという決意です。しかし、それはニーノとの愛に一生を捧げるという決意にも見て取れます。後期ロマン派のオペラを見ているような見事な昇華でした。

原作のジョヴァンニ・ヴェルガは、ヴェリズモオペラの代表作、カヴァレリア・ルスティカーナの原作者。しかし、この映画にはヴェリズモと言う雰囲気はなく、ロマン派の雰囲気が強く出ていると思います。ゼフィレッリ監督がかつての作曲家がオペラを作ると同じような感じで、映画として表現したという事でしょうか。濃厚な音楽にも、挿入される歌にも、オペラらしさが感じられる映画でもありました。教会批判をしているのかなとも思いましたが、最後まで見るとそうでもありません。ただ、教会の人々の献身と犠牲、一方で運営の矛盾と困難。それを祭り上げて、頼って生きる人々。そのような社会の微妙な行き違いの様子も表現されています。それにしてもテーマは至上の愛だと思いました。記憶に残る佳作という雰囲気です。

2020.8.1 HCMC自宅にてパソコン鑑賞

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「ロベレ将軍」 ネオレアレズモ時代から10年後の戦争もの

非英語圏のヨーロッパ映画を見る10月その2。今回は、1959年の映画で、ロベルト・ロッセリーニ監督のロベレ将軍。ヴェネツィア国際映画祭での、金獅子賞受賞作品で、アカデミー賞でも脚本賞候補となりました。終戦直後、ネオレアリズモで一世を風靡したロッセリーニ監督ですが、この映画は戦後しばらく時間を経過した時期の作品となります。
原題:Il generale Della Rovere (1959)

あらすじ
第二次大戦末期、連合軍は南イタリアを解放し、ドイツの支配する北イタリアへと迫っていました。占領下のジェノヴァで、大佐と自称する、ジョバンニ・ベルトーニ(ヴィットリオ・デ・シーカ)は、ドイツ司令部の下士官と結託して、拘束されたパルチザンの家族に釈放を持ち掛け、家族から金を騙し取っていました。しかし、悪事は長続きせず、被害者の告発で逮捕されてしまいます。その頃、連合軍はパルチザンとの連携のため、ロベレ将軍を北イタリアに潜入させようと計画。ドイツ司令部のミューラー大佐(ハンネス・メッセマー)は、このロベレを捕え、パルチザンを一網打尽にしようと計ります。ところが、ロベレは警備中のドイツ軍に射殺されてしまい、大佐は、ベルトーニを偽ロベレ将軍として、パルチザンの収監されている刑務所に送りこみました。

ある日、九人の政治犯が刑務所に収監され、その中には、ファブリッツォというパルチザン指導者がいるはずでした。ミュラーはそれを割り出せず、ファブリッツォが獄中でロベレに連絡をとると考えた大佐は、ベルトーニに注意させると、バンケッリ(ヴィットリオ・カプリオーリ)という囚人が紙片を偽ロベレに渡します。大佐は返信のメモを、ロベレからバンケッリに渡させますが、これが看守に見つかってしまい、バンケッリを拷問するしかなくなります。拷問に耐えかねたバンケッリは、ベルトーニの前で自殺。さらに、夫を想うロベレ夫人から、ロベレへの手紙を受け取り、ベルトーニにイタリア人としての同胞愛が湧きあがってきました。

パルチザンによる襲撃事件が発生。その報復として、九人の政治犯が処刑されることとなり、ミュラーは、銃殺をひかえた最後の日に、必ずファブリッツォはロベレに連絡をとると確信。処刑を待つ囚人の中に、ベルトーニを同席させます。すると予想通り、ファブリッツォはベルトーニの前に正体を明かしたのでした。刑場への道でミュラーはベルトーニを呼び止め、ファブリッツォがどの男であるのかを尋ねますが、ベルトーニはロベレ夫人に当てた、別れの言葉とイタリア万歳と書かれたメモを残し、ミュラーの制止を振り切って、ロベレ将軍として刑場に立ったのでした。



ロベレ将軍

ロッセリーニの戦後のネオレアリズモの作品からすると、ずいぶん丸くなったというか、鮮烈さを欠いたという印象を持ちました。どうもロッセリーニということで、ネオレアレズモ的な映画を期待してしまったからかもしれません。そして、美しい映像なのですが、ちょっと合成的なところが目立ったりもします。終戦直後の様に、戦中の風景があちこちに残っている時代からは、ずいぶん時期が経過してしまったという事でしょう。前半は詐欺師の活動で、諧謔的な感じ。ヴィットリオ・デ・シーカらしい、コミカルで、魅力のある詐欺師です。そのあたりの雰囲気も、この映画がなんとなく、尖った所が無いように感じてしまう所だと思います。

ハンネス・メッセマーのミュラー大佐がなかなか面白い役だったと思います。人物像が掴みづらいところはありますが、狡知に長け、職務に忠実なドイツ将校と言う雰囲気でした。ドイツの将校が着ている軍服は、他の国と比べても、なかなかカッコいいと思います。特に、白黒で見ると映えるような感じがしました。ヴィットリオ・デ・シーカは、いつものように洒落た役どころ。ここでは、苦悩に陥れられますが、二枚目俳優なので、辛酸をなめるような役でも、洒落た感じは維持しています。最後の毅然とした態度と、祖国愛への回帰は印象に残りました。

さて、ロッセリーニ監督といえば、ネオレアリズモというイメージを持ち続けていますが、実際はそれはキャリアのごく一部の数本であって、いろいろなタイプの映画を遺しているようです。それらの作品はすべて未見ですので、やはり、いろいろと見てみないと、ああだこうだと言えないと思いました。この作品からも、どうもロッセリーニ像の掴みどころがなく、まだまだロッセリーニ監督の作風のイメージが頭の中に湧いてこないので、更に、今後の楽しみとして、見ていきたいと思います。

2020.10.5 HCMC 自宅にてAmazonPrimeよりのパソコン鑑賞

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「眠れる美女(2012)」 尊厳死にまつわる人々の群像劇

10月になって、芸術の秋ということですが、どちらかというと芸術の気分を感じられる映画という事で、今月は非英語圏のヨーロッパの映画を中心に見ていこうと思いました。見れば面白いのですが、なかなか踏ん切りがつかず、Amazonのウォッチリストにたくさん貯まってしまったのです。まずは、眠れる美女から。2012年の映画で、監督はマルコ・ベロッキオです。イタリア・フランス合作映画で、ヴェネツィアではノミネートのほか、いくつかの受賞がありました。
原題:Bella addormentata (2012)

あらすじ
2009年のイタリアでは、長年植物状態にある女性、エルアーナの尊厳死に関し、全土を二分する議論が巻き起こっていました。そんな中で、延命措置の停止が決まり、処置を申し出た病院へと搬送されますが、カトリック信者や反対層の支持を集めるベルルスコーニ首相は、延命措置を続行させるべく、法案の強行採決へと動き出します。そのような背景で、三つの物語が進行していきます。

上院議員のウリアーノ(トニ・セルヴィッロ)は党の方針に従って、延命措置続行に賛成票を投じるべきか悩んでしました。彼自身、苦痛に喘ぐ妻に頼まれて、自ら延命装置を停止させた過去があったのでした。母を死なせた父に、娘のマリア(アルバ・ロルヴァケル)は不信感を抱き続け、エルアーナの延命措置が続行されるよう、毎日デモに参加しています。一方、ウリアーノは信念を曲るくらいなら、党の方針に従わず、議員辞職してまでも、反対票を投じようと考え始めました。

医師のパッリド(ピエール・ジョルジョ・ベロッキオ)と同僚たちは、エルアーナの死の時期で賭けをしていました。患者の家族たちは医者への不信感が強く、常に治療への不満をぶつけ続けています。その時、パッリドの前て薬物を盗もうとした薬物中毒のロッサ(マヤ・サンサ)が取り押さえられ、ロッサはパッリドたちの前で手首を切ると、昏睡状態となり、意識が戻らなくなってしまいます。パッリドは周囲の反対を押し切り、彼女を病院に滞在させ、彼女の傍らに寄り添うことに決めます。

伝説的の女優(イザベル・ユペール)は輝かしいキャリアを捨て、植物状態の娘ローザの看病に専念していました。娘のために毎日のように祈りを捧げ、エルアーナの報道を見ては涙を流す日々でした。家族との愛情も徐々に失っていく母を、息子フェデリコ(ブレンノ・プラシド)は、女優として復活させる為に、ローサの延命を停止しようとしますが、父に止められてしまいます。

そんな騒然とした中で、エルアーナの死亡が報道されます。政界では、対立し論争する意味が薄れていき、徐々に騒乱は終息。辞職を決めていたウリアーノも、この騒ぎの渦中で愛を知り、またそれを失ったマリアと向き合い、平穏を取り戻します。病院ではロッサが目覚め、パリッドの前で憎まれ口を聞きつつ、自殺を図ろうとしますが、パリッドに止められ、生きる希望を見出し始めるのでした。



眠れる美女(2012)

尊厳死を巡って騒然となる、イタリア国内の状況から映画は始まりました。登場人物の背景がなかなか掴み切れず、混乱したまま進んで行きます。このあたり、イタリアに住んで、直近で起こったこの事件の事情や、カトリック教会の位置づけなどを、身をもって判っているかどうかで、随分取っつきやっすさが違うと思います。イタリアの病院の大部屋の騒然とした様子などを見ると、この状況でコロナが蔓延したという事なら、確かに大変な事になったのだろうと感じました。そういった中で、ストーリーは議員、医師、女優の3つの軸で進んで行きました。

尊厳死がテーマで、それに関するエピソードや考え方が幾重にも積み重ねられています。そして、それは到底結論の出るものではありません。尊厳死と言えば、「ミリオンダラー・ベイビー」がアカデミー賞を取っていますが、あの映画は私の感じるワースト映画の一つです。あの映画を見て以来、クリント・イーストウッドが嫌いになりました。それは、この映画を見てもはっきり再認識しました。息子のフェデリコが延命処置を外そうとする場面。寡黙な父親が「自分の正義を他人の押し付けるな」と一喝します。まさにその通りで、あの映画はそれなのです。

さらに、この映画は重層的に描いていくので、植物状態にかかわらず、いろいろな事象を描いています。精神が不安定な弟を持った兄の話。イザベルの大女優もしかりで、家族や知人に問題が発生した場合の影響をいろいろな角度から描いています。人生のある時期にそういった問題に遭遇することは、誰にでもあることだと思いますが、しっかり向き合って、どうその時期を過ごしていくかが、大切だと感じました。マヤ・サンサが印象に残りました。彼女は、これでドナテルロ賞の助演女優賞となっていますが、迫力のある、素晴らしい演技だったと思います。スタートは混乱しましたが、後半は映像に集中できました。尊厳死を背景にした多様性を描いた群像劇として、見ごたえのある作品でした。

2020.10.3 HCMC自宅にてAmazonPrimeよりのパソコン鑑賞

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プロフィール

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Author:torrent13
映画は見たり見なかったりの時を過ごしてきましたが、現状ベトナム在住で、時間があるので、主にネットで見ています。昔はSF映画と、ミニシアターが好きでしたが、その後は西部劇、そして、最近では邦画や古いハリウッド映画などにも見る範囲を広げてきました。

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